2017年




ーーー11/7−−− 引き戸を納める


 
伊那市高遠町に中古住宅を手に入れて住んでいる友人から、相談を受けた。玄関の引き戸にガタがきていて、隙間風も入って具合が悪いから、リニューアルしたいと思っている。建具屋に見てもらったら、サイズが合わないので引き戸は無理、ドアに替えるしかないとのこと。その工事費用の見積りは、かなりの金額であった。サッシのドアでは雰囲気が合わないと思うし、やけに値段も高いので、何か他に手段は無いものか、との相談だった。

 「私が作りましょう」と返事をした。建具は専門外だが、自宅に防寒用の二重戸をいくつか作ったことがある。いずれも問題なく使えているので、玄関の引き戸だってできると思った。費用は、工務店の見積りよりグッと低い金額を提示した。専門外のジャンルであるから、世間並みのお代を頂くのは気が引ける。試しにちょっとやってみたいという、自分サイドの気持ちもある。それに、多少トラブルがあっても、この金額なら多目に見てくれるだろうという目論見もあった。

 現地へ行って状況を確認し、寸法を測って計画に入るのが本来のやり方だろう。しかし、そのためわざわざ出かけるのは面倒だった。その家には3回ほど入ったことがあるので、玄関の様子もだいたい分かっている。ごく普通の、和風の玄関である。そこで、行く必要は無いと判断し、友人に既存の戸の寸法を測ってもらって済ませることにした。友人は元エンジニアだから、こう言う事に対する勘は良い。そして、見て確認したい部分については、写真を撮って送って貰った。

 製作はトントン拍子に進んだ。我ながら手際が良いものだと思った。そして、出来上がったので、納品の日取りを決めた。その時になって、一つのチョンボが発覚した。その詳細についてはここでは触れないが、土壇場になってかなり慌てた。友人と電話でやり取りをした結果、どうやら作り直しをせずにしのげる目途が立った。そこで予定通り納品に望んだ。

 戸は、一発でピシャッと入った。懸案事項については、建屋の間口の柱の、戸が当たる部分の溝を、一段深く掘り下げて解決することにした。建物が傾いているため、既存の戸は、柱との間に不均一な隙間が空いていたが、溝を深くすることで、その問題も解決した。立っている柱に溝を刻むのは、ちょっと面倒な作業になるが、事前にやり方を検討して道具類を備えて行ったので、滞りなく進んだ。だが、やはり時間はかかる。午後3時ごろから始めた作業は、日没で中断となり、続きは翌日の朝から再開してやり終えた。

 既存の戸は、ガラス部分が多い、いかにも和風の戸だった。新規に制作したのは、板戸の上下に窓を切った形のもので、だいぶ雰囲気が違う。しかしそれがかえってモダンな感じで良いと、友人は喜んでくれた。

 今回の仕事で感じたのは、やはり建物がらみの作業は、寸法の押さえが難しいということ。特に古い家屋は歪んでいることが多いので、そこら辺をどう見極めるかが難しい。

 結果的には上手く行ったのだが、それはいささかの幸運に恵まれたせいと言えなくも無い。ともあれ、私自身は全てが終わって安堵したのだが、友人も肩の荷が下りたような感じだった。彼は言った、「もしオレの計った寸法が間違っていたら、せっかく作って貰った戸が入らないだろう。そう思うと、気が気じゃなかったよ」





画像はリニューアルした玄関引き戸。ツーバイ材で枠を作り、シナ合板を太鼓張りにした。窓にはポリカ中空板と半透明のPP中空板を重ねて入れた。いずれも、防寒を考慮した構造。

画面左下に横になっているのが、これまで入っていた戸。ほぼ全面ガラスで、とても寒かったそうだ。

新しくなったこの戸を見て、芸術家の家のようだと、近所のおかあさん達に好評とのこと。
















ーーー11/14−−− Aガラス店の仕事


 
松本のAガラス店とは、20年近い付き合いである。このところしばらくご無沙汰したが、ある仕事でカットガラスが必要になったので注文をした。出来上がったとの連絡があったので、受け取りにお店へ出掛けた。店主のAさんは、以前と変わらぬ穏やかな物腰で迎えてくれた。

 用件が終わり、しばし雑談を交わした。最近は、ガラスの仕事はとても景気が悪く、市内の大手のガラス業者も廃業したとのことだった。Aさんの店も、以前と比べればガラスの需要は各段に落ち込んだそうである。ところがAさんは、先代から引き継いだガラス業に加えて、額装の仕事を自分の代になって始めた。額縁を作り、ガラスを入れ、絵画などの作品を納めるまでの作業を行うのである。今ではその仕事がとても面白いとAさんは言った。

 額装も奥が深い世界らしい。作品を紫外線やカビなどから守り、変色や退色を防ぐためには、それなりの対処方法があるとのこと。国内では、絵画を取り扱う画商も、また絵を描く画家でさえ、これまでそういうことにあまり関心が無かったそうである。海外、特に米国ではその方面の技術が進んでいる。Aさんは米国の技術を学び、資格を取っている。

 もともと几帳面で真面目な性格に、研究熱心な姿勢が相まって、彼独自の世界を作り出した。美術に関心が深かったこともあって、公立美術館と関係ができ、仕事を任されるようになった。ルネサンスの画家の作品展を準備するにあたり、美術館に出向いて、イタリア人の学芸員の立会いのもと、絵画を額に入れる作業をしたこともあったとか。

 そんな経験を積むうちに、一般の美術愛好家から、作品展の取りまとめを依頼されるようになった。額装から始まり、展示室の配置、照明などの準備、そしてポスターやチラシの製作まで、企画全般を任されるのである。ほとんどボランティアのようなものだが、とてもやりがいがあると言う。

 自分がやった仕事の内容を相手が評価してくれ、「あなたのおかげで良い展示会になりました」と感謝の言葉を貰う。それはたいへん嬉しいことだとAさんは述べた。ガラスを学校や家庭に納めるのも、業としては大切なことであるが、それは言わば仕事として普通のことであり、特に褒められることも感謝される事も無い。相手の感性に訴える創造的な仕事は、全く別種の喜びがあると、楽しそうに語った。

 若い頃と違って、もうあくせく働く必要も無い。気に入った仕事を細々と続けていければそれで満足だとも言った。まさに熟年の境地である。そういうお仕事ができて幸せですね、と言ったら「大竹さんのお仕事もそうじゃないですか」と返された。




ーーー11/21−−− 聖歌隊


 誘われて、教会の聖歌隊に加わった。総勢十数名の隊であるが、ほとんどは私より年上(教会は高齢化が進んでいる)。毎回礼拝後の練習に参加するのは十名前後か。初めての練習に参加したのは9月半ばのこと。四部合唱のバスパートを受け持つことになった。合唱をするなど、中学校の音楽の時間以来である。しかし、既に4年ほど、毎週教会に通い、礼拝で賛美歌を歌ってきたので、人前で声を出して歌うことには、さほどの抵抗はなくなっている。

 礼拝堂で、オルガンの伴奏で練習をする。とりあえず、クリスマス・キャロルにむけての曲目をやる。パートごとにメロディーを弾いてくれるので、とても親切だ。とはいえ素人の悲しさで、一回聴いただけで歌えるものではない。自宅練習を重ねなければ、他のメンバーのレベルに追いつかない。他のメンバーは、とても上手で、よどみなくパートを歌う。たいしたものだと感心したが、彼ら(彼女ら)に言わせれば「もう何十年も同じ曲を歌ってますから」。

 ご存知の方もおられると思うが、キリスト教関係の書物は、全世界レベルで共通になっている。聖書は、一章一編に至るまで、外国語版と同じ構成になっている。讃美歌集は、そこまで整ってはいないが、それでもネットで検索すれば、だいたいの賛美歌は動画で視聴できる。日本語版も、かなり充実している。中には、パート別の演奏まで聴けるサイトもある。そういうのを利用すれば、初心者でも、自宅で十分な練習ができる。

 ところが、あまり有名でない曲は、パートの演奏まで載せているサイトが無い。そういう曲は、楽譜を見ながら、自宅のピアノでメロディーを弾き、それを録音して聴きながら練習をするしかない。ピアノが堪能でない私は、一本指で音符を追い、何度もやり直して、ようやく録音が出来るという感じになる。

 どんなに頑張っても、自分では弾けない曲もある。そういうのは、オルガニストにお願いをして、パート部を弾いてもらい、録音をする。それを持ち帰って、自宅練習に使う。

 そんなふうにして、一週間に一曲のペースで新しい曲を練習した。一応歌えるようになって、日曜日、礼拝後の練習に望む。全体練習でハーモニーが合い、良い感じにまとまると、何ともいえない喜びが感じられた。合唱とは、こんなに楽しいものだったのかと思った。楽器も何も使わずに、身一つでこんなに満ち足りた幸せ感を得られるとは、これまでの人生で思いもしなかった事である。

 クリスマスのキャロリング(出前演奏)では、ピックアップした教会員のご家庭(今年受洗した方とか)の他、老人ホーム、障害者施設などにも出向くそうだ。施設に入ったままクリスマスを迎えなければならない環境にある人々は、ほんのわずかな時間でも、クリスマスの雰囲気を感じることができるキャロリングを、とても楽しんでくれるそうだ。そのようなお役に立てることを頭に描くと、いやがおうにも自宅練習に力が入る。

 

 
ーーー11/28−−− 車間距離を詰める人


 車を運転していると、後ろから来た車が距離を詰めてくることがある。年齢や性別に関わりなく、そのような運転者がいる。そういう事態になると、イライラする。

 自分は車間距離を十分に取らないと安心できないたちなので、先行する車に対して無用に接近する事は無い。無用にと書いたが、過去には恥ずかしながらその方針から外れたこともあった。子供たちが高校へ通っていた頃、朝の時間帯に駅まで送って行ったのだが、たまに年配者の軽トラなどで、異常に遅い車があった。その後ろについてノロノロ走っていると、電車の時間に間に合わない。そこでやむなく車間を詰める。「こちらは急いでいるんですよ」ということをアピールするためである。もっともその作戦は、大方の場合効果が無かったが。

 さて、後ろの車が接近してきた場合、心理的なプレッシャーを感じるのは、何よりも危険だからである。やむをえぬ理由で急ブレーキを踏んだ場合に、追突される恐れがある。しかし事故が起きて困るのは、こちらだけでなく、相手にとっても同じこと。そのような危険がありながら、車間を詰める人が普通にいる。特段急いでいる様子もないのに、である。そのような行動は、私にとって全く理解に苦しむ。車間距離を短くしておけば、赤信号に引っかかりにくくなり、目的地へ早く着けると思っている人もいるかも知れない。しかし良く考えればそんな効果は無いと、私は踏んでいる。

 ところで、先日ある会合で、高速道路で起きた煽り運転による事故の話が出た。同席したある人、人格に優れ、思慮分別に間違いが無く、極めて信頼できる人物が、「自分も高速道を走っている時、そのような煽りをくらったことがある」と話し出した。何の理由か分からないが、大型トラックがぴったり後ろに付き、挙句の果ては脇に出て巾寄せをしてきたと。「その時は本当に怖い思いをしましたよ」と言った。

 同席した人が、「追い抜かれると腹を立てるドライバーが居るいらしいですよ」と言った。特に車間距離を詰められ、その後追い抜かれたりすると、ムカッとくる人が多いそうだと。それを聞いた当人は、「そうですか、私も車間距離を詰めがちな方ですから」と言った。私はそれを聞いてちょっと驚いた。先に述べたように、車間距離を詰めると言う行為は、私には理解しかねる。極端に言えば、そういう事をする人は、あまり好ましくない輩だと思ってきた。尊敬する紳士からそのような言葉を聞き、正直なところ驚いたのである。

 車間を詰める事に関する問題点は、その方も当然認識しておられるだろう。しかし、人には長年に渡って身に付いた、習慣とか癖とかいうものがあり、それが良くないと分かっていても、自分から直す事は難しい。人間は理屈どおりには生きられないのである。わが身を振り返っても、そういうことは多々ある。良くないと知りながら、深酒をすることがしばしばある。もっとも私は、あの方のような優れた人格の持ち主ではないが。

 人は自分の価値基準で物事を考え、判断する。自分が正しいと信じ込んでいる事に反するものに出会うと、それを頭から否定し、それに関わる人を悪く思いがちだ。しかしその価値基準というものは、概して一面的である。自らの反省も含めて言うのだが、一面から見ただけで全体を判断すると言う愚を、人は犯しがちなのである。

 今後は、後ろにピッタリと付けてくる車があっても、その運転手を悪く思うのは止めにしよう。その人も、優れた人格の、良い人なのかも知れないのだから。だいいち、バックミラーを見ながら、相手を悪く思ったり、憎まれ口を叩いたりしても、何の意味も無い。




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